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2016年9月12日月曜日

カウナスの杉原千畝記念館

寒かったので、上着などを着込み、傘を持ち、杉浦千畝記念館へ向かいます。
今日は日曜日なので4時でしまっちゃうので、急いで急いで。

杉原千畝記念館へ


行く前に、バスターミナルの場所を確認してから
(アクロポリスってショッピングセンターの前がバスターミナル)
杉原千畝記念館へ向かいます。

アクロポリス前の公園を通り抜けて、住宅街を歩いて、、

うーん、なんか違う気がする。。。

ちょうど車庫にいた近所の方にたまたまの大雨の中「どこですか?」と聞きながら
車庫の軒先で雨宿りさせてもらいながら、行き方を教えてもらいます。

教えてもらった階段をてくてくと登り、



右にまがって



看板発見!



到着です。

杉原千畝記念館




入って、入場料を払い、
最初にビデオを見ます。
30分のビデオです。


ビデオが終わると、

もう1本いかがですか?

はいみます。

で、もう30分。

2本目は岐阜県町八百津(やおず)町のビデオ。
杉原千畝の出身地だそうです。

1939年9月 ドイツによるポーランド侵攻が始まり、ユダヤ人の強制収容、財産の没収が始まる。
ソ連はポーランド東部併合しバルトを支配下におき、ソ連にいたユダヤ人はシベリアへ。

多くの国がユダヤ難民の受け入れを拒否していたが、日本は排斥しなかった。
ただし、日本は行き先が確定し旅費があるものにしかビザは出さない。
そこで、オランダのキュラソー島へのビザを持ったユダヤ人が日本の通過ビザを求めてやってくる。
(日本の通過ビザを取るために、オランダ領事が発給したカリブ海に浮かぶオランダ領キュラソー島のビザ)
1940年7月29日 日本の通過ビザ発給開始。
1枚のビザでその家族も渡航出来るため、約2000枚のビザで約6000人のユダヤ人が日本に入国することができた。
シベリア鉄道にのりウラジオストックからJTBの船で福井県の敦賀へ渡る。

ソ連の領海を出て、ユダヤの歌を歌う。今のイスラエルの国歌の歌である。
若六旅館に泊まり、開放された銭湯に入り、持っている時計などを売ったりしている。
当時のことを覚えている人が、話をしている。
1940年9月には日独伊軍事同盟が結ばれる。
ユダヤ人は日本を離れアメリカやオーストラリアへ渡る。


とりとめのないメモです・・

そう、JTBの船!?!
JTBはインバウンド(外国人受け入れ)を専門にする国営の旅行会社として発足しました。
到着後も、国内でユダヤ難民への対応。
ちょっと前のソ連のインツーリストのような事もしていたのねぇと、一人なんとなく思ったり。
(なんとなく思っただけです。。)


八百津町には公園があり、そして記念館があるそうです。
ビデオで紹介のあった人道の丘公園。
https://www.town.yaotsu.lg.jp/contents/view.cfm?id=910&g1id=4&g2id=18
そして記念館もあるそうです。
http://sugihara-museum.jp/



そして内部の見学です。

このお部屋は有名ね。

領事のお部屋。









見学後、また階段をてくてくと降り、
公園を抜けて、今度は旧市街へ向かいますよ。



バスに乗って、ホテルまで戻ってから、
ながーい遊歩道を歩いて旧市街へ向かいます。


1940年8月 リトアニアはソビエトに編入される
1941年6月 ヒトラーはソ連に奇襲攻撃をしかけ、リトアニアを数日で侵略する。
1941年から 地元ユダヤ人の処刑
1942年から1943年 ゲットーでのユダヤ人の強制労働
1943年から1944年 ゲットーの撤去
(約20万人)