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2016年9月11日日曜日

虐殺犠牲者の博物館

旧市街の大聖堂からゲティミノ通りをてくてくまっすぐ歩き、
朝10時、ヴィリニュスにある虐殺犠牲者の博物館へ到着しました。


虐殺犠牲者の博物館

ヴィリニュスにある、虐殺犠牲者の博物館は、
以前、KGBビルとして利用されていた建物を利用しています。

この建物自体は1899年に建てられたそうです。
最初、ロシア帝国のヴィリニュス裁判所として利用され、
その後、ドイツ、ポーランドなど、占領政権の施設として利用されます。


博物館に到着




この建物で撃ち殺されたリトアニア愛国者の方の名前が彫られています。



慰霊碑にはお花が。



入ります。




展示


チケットを購入し(4ユーロ+写真2ユーロ)
まずは1階と2階の展示から見学します。

1940年から1991年までのリトアニアでの抑制の歴史がつづられています。

1941年、リトアニアはソビエトの14番目の加盟国になり
1841年6月、リトアニアで最初の大規模な追放が行われます。
その後すぐ、ナチスドイツの奇襲により、数日間でドイツが侵略し、1944年までナチスの恐怖が続きます。
1944年、スターリンによる恐怖が始まります。

リトアニアは、ウクライナ、ラトビア、エストニアとともに、ソ連によるジェノサイド(計画的絶滅政策)を経験することになります。

森の兄弟(パルチザン)は1941年のソビエトによる徴兵を起因として始まり、
活動のピークは1947年から48年、ソビエトはパルチザン撲滅作戦を行います。
リトアニア全土で5万人ほどいたといいます。











英語&リトアニア語での説明があります。

その後は地下に降りて。。



KGBが利用していたころの様子が残されています。



沢山のセルが並びます。



最初の部屋は、狭い部屋。
立ったまま収容されます。


他の収容室。





拷問の部屋として、冷たい水が張ってある部屋などなど。

運動スペース。



実行室。


ビデオで状況を説明していました。



処刑した後、洗い流せるようになっていて。



右上の小窓から死体を外に出します。



英語とリトアニア語のみの説明です。
リトアニア語はわからないし、

英語も長文読解は不得意・・・だし、
公式ホームページを読んでから行けばよかったな。

http://genocid.lt/muziejus/en/ziejus/en/

公式ホームページに詳しく書いてあります!


読んでから行きたい本


帰国後に読んで、行く前に読めばよかったと思った本はこちらです。
ポーランド、ロシア、ドイツに挟まれたリトアニア大公国が大きくなったり小さくなったり
多神教国家だったリトアニアがいろいろな宗教を受け入れていく様子を読むことが出来ます。



バルト三国の歴史

2014年初版と比較的新しく、石器時代から現代までの歴史を網羅しています!
一番おすすめ☆☆☆

リトアニア 小国はいかに生き抜いたか


リトアニアが20世紀にどのように生き抜いてきたか
シベリアから生きて帰ってきた人たちのこと、パルチザンの証言や1992年当時のKGBビルのことも書いてあります。
博物館に行くときに持っていくと参考になると思います。





12時すぎの電車に乗るので、11時頃出てきました。

外が明るい!



バスに乗ってホテルに戻ります。




チェックアウトしたらカウナスへ向かいます。
カウナスは昔のリトアニアの首都ですよ。


1940年からのリトアニアまとめ


1940年8月 リトアニアはソ連の14番目の加盟国になる。
1941年6月 NKVDの名簿に記載された人がシベリアへ強制連行。
リトアニアで最初の大規模な連行、1万8千人が連行される。

1941年6月 ヒトラーはソ連に侵攻しリトアニアを侵略。
1942年から1944年、ナチスドイツによる虐殺(ユダヤ、ロマ、17万人のソ連人捕虜。)
また沢山のリトアニア人が本国での強制労働に従事。
1944年7月 ソ連軍が来て、スターリンの恐怖が始まる。
1949年、プリボイ作戦が実行され、バルト三国の割り当ては3万家族(9万人ちょっと、うちリトアニアから3万人)がシベリアへ強制移送される。

第二次世界大戦中、リトアニアは5回の体制変換をする
ポーランド→ソ連→リトアニア→ドイツ→ソ連

1941年 ソ連のリトアニアでの徴兵から、森に逃れた数千人の若者が民族パルチザンに加わる。
以降パルチザンによる抵抗が始まり、農村には支援するネットワークが構築されていく。
またソ連諜報員もレジスタンス活動になりすまし、パルチザン活動の末期には誰が誰なのかわからなくなっていた。
1953年のスターリンの死後、テロルの嵐はやみ次第にソビエト体制に順応していき、森の兄弟は、1956年??(←?)まで活動を続ける。

1944年から行われた移送により、リトアニアからの被追放者は12万人(人口の5%)にのぼる。
移送されたラーゲル(収容所)には、リトアニア人、ウクライナ人、ロシア人、ドイツ人や日本人もいたそうです。


ラーゲルの日本人


高杉一郎さんの著書、シベリアに眠る日本人を読みました。

著者が、第二次世界大戦後、シベリアで俘虜として働いていた時の回想、そして当時の収容所長を訪ねる旅の記録です。


ある日、

「今年の夏休みはロシアに行ったの。」と話をしていたら、
お父さんがシベリア抑留されていた方に「僕たちは絶対忘れてはならないんだ。」と言われました。

関東軍降伏後、日本人俘虜約55万人がソ連領内へ。
イルクーツク州にきたのは7万人、タイシェット(第7ラーゲリ)、チェレンホーヴォ(第31ラーゲリ)、イルクーツク(第32ラーゲリ)に分けられ、炭鉱、岩塩採掘、木材調達などを行います。
他、ドイツ人約300万人、イタリア人20万人、そしてソ連の人たちが1500万人、計約2000万人がラーゲリにいたそうです。10人に1人が亡くなる過酷な環境での労働。

次にロシアに行くときには日本人墓地を訪ねてみようと思う。


アムネスティインターナショナル(国際人権救済機構)

http://www.amnesty.or.jp/
拷問や死刑の廃止をもとめる国際的な非政府組織。
思想、信条、肌の色、性、人種、言語、宗教などを理由としてとらわれた人の無条件の釈放をもとめる。
政治囚にたいする公正な保証。
すべての死刑・拷問に反対する。